寒天とは、「寒ざらしのところ天」


厳しい冬の寒さにさらされ、水分が抜けたところてんの干物が寒天ということを、ご存じでしたでしょうか?

これは日本の発明品なのです。


あらためて『ところてん』と『寒天』の違いを確認してみます。


『ところてん』は、テングサやオゴノリをグツグツと時間をかけて煮溶かし、これを漉してから冷まし、固めて天突きで突いて細くしたものです。


そして、これを屋外で乾燥させたものが『寒天』です。


細寒天とは糸状にしたものを乾燥させ、角寒天は棒状のものを乾燥させてできたのもです。

 
寒天の歴史



『ところてん』は遣唐使の時代に中国から製法が伝えられ作り始められたものなのですが、それを干した『寒天』は江戸時代に発見された日本の発明品なのです。


江戸時代初期(1658年頃)、京都の旅館「美濃屋」の主人・美濃屋太郎左衛門が『ところてん』を外に出しておいたところ、冬の夜中の寒さで凍り、それが日中に溶けて水分が抜け、『ところてん』の干物のようになってしまいました。


それを見つけた太郎左衛門のひらめきによって、『寒天』の製法が編み出されたと言われています。


その後、原藻の配合や製造法に改良が加えられ、京都・大阪を中心に「ようかん」などの和菓子の材料として発展してゆきました。


ちなみにこれを『寒天』と命名したのは中国からの帰化僧、隠元禅師と言われています。このお方は、『いんげん豆』の隠元禅師でもあります。



隠元は『寒空』や『冬の空』を意味する漢語の『寒天』に『寒ざらしのところ天』の意味を込めて『寒天』と命名したと伝えられています。




南信州で寒天が作られるようになった理由とは?


信州に寒天の製造が伝わるのは、江戸時代末期(1840年頃)になってからです。


丹波で寒天の製造法を見た諏訪の行商人・小林粂左衛門が、「これは雪や雨が少なく乾燥気候で、冬が長く寒さが厳しい南信州(今の長野県諏訪地方)の農家の副業にぴったりだ。」と考え、この製法を学び持ち帰りました。




角寒天、細寒天から粉末寒天へ


戦後、寒天は気候によって出来高が大きく左右される「相場商品」でした。


そこで、安定した品質や価格、そして安定供給のために研究がなされ、その製造技術は画期的に進歩しました。


そうして登場したのが「粉末寒天」です。


粉末寒天は天候に左右されることなく一年中生産でき、しかも衛生的で、水浸けや漉す手間もいらないことから、その需要を大きく伸ばしていきました。


安定した原料の確保と量産による価格と供給の安定、品質管理の徹底は、粉寒天を和菓子やゼリーだけでなく、


ヨーグルトや佃煮など様々な食品に使えるようにし、近年では、寒天は食品にとどまらず細菌培地、化粧品、医薬品などその用途を大きく広げています。